美しいヌード ヌードを前にして、経験や知識は視覚を遮る

水彩画のエッセンス

 

   

 

< 自分の目が捉える美しさ >

 過去の経験だの前知識はいらない・・・  自分の目が捉える美しさを信じることです。 他の誰でもない、自分の目で見た真実を紙上に再現することです。 今、目の前にある図をそのまま再現します。 過去の経験だの前知識は要りません。 人の体はこういうものだ・・とか、以前描いたときはこう描けた・・とか、そういう経験や前知識はいっさい忘れてしまうことです。 今、目の前にある人の図(美しく見える)ヌードがすべてです。 その日その瞬間しか描けない絵があります。 モデルにとっても始めてポーズであり、制作者にとっても初めて見る瞬間でもあります。 人の体はたぶんこうなのだろう・・といような経験や前知識は邪魔にしかなりません。 目の前に見える”真実の像”の姿を遮ってしまうことになります。 このことは、絵(デッサン)に限ったことではありません。 異性と付き合ったときにも同様のことを感じる(勉強する)と思います。 女性(男性)とはこういうものだ・・なのだ・・という前知識は何の役にも立ちません。 この世に二人と同じ女性(男性)はいないのですから。

 

 1900年代に入って、プリミティブ派と言われる画家達がいたことを知っているだろうか。 プリミティブという言い方を聞くと、野蛮な知性的でない印象を受けてしまうのだが、アートの歴史においてはアーバンギャルドな存在であったこと、彼らプリミティブな画家を認めたのは当時最も前衛的なピカソやドローネであり、詩人アポリネール出会ったことからもその存在の意味が推測できると思う。 プリミティブな画家として最もよく知られるのはアンリ・ルッソーである。 素朴な童心をもって素朴な絵を描いた。 それらは、知人の肖像であったり、近所の風景、熱帯を風景を空想するような、自由なモティーフと取ることに共通している。 いわゆる、絵画の既成概念にとらわれることはなく、奇抜な構図と自由な色彩を用いて丹念に描いていった。 当時において、絵画を描く事のイロハを知っている人間にとっては「下手な絵」に見えたに違いない・・・ 正規の修行を受けていない人たちの絵だったからである。 彼らを素人画家、日曜画家、庶民画家など様々な言われかたした・・・要は、本職の画家出ないという意味で。 例えば、アンリ・ルッソーの「戦争」や「眠れるボヘミアン」を見てみるとよい。 そのには強烈な印象を受けると思う。 従来の既成概念によって描かれたものとは明らかな違いを感じると思う。 そして、たしな技量をそこに見ることができる。 ・・・たぶん、伝統的であること・アカデミックな流れにあることが視覚を遮ることを知っており、規制の様式などには否定的であり、絵画の原点に立ち戻ろうとする意思を感じることと思う・・・フォーヴィズムの画家達との共通点を見ることができる。 いずれも、経験や知識は視覚を遮ることを知っていた人たちである。 これらの画家達の美しい女性ヌード画は見ることがないのはそれなり理由があるのだろうか・・・

 

 

   経験と前知識・腰の姿 美しいヌード鉛筆画・自分の目が捉える美しさ 白黒ヌード鉛筆画・真横からのポーズ

 

美しい女性ヌード画を、カラーとモノクロ・色彩画とモノクロ画の両方を載せてます。 色彩があるほうは、抽象画との合成画であり、モノクロ画は、原画のままです。 ただ、いずれもトリミングしてあり、視覚的な記憶が豊富な方・部分から全体をイメージすることが得意な方にしか見えない絵かもしれません。 一種のノスタルジーなのでしょうか、自分が子供の頃がそうであったように、ここには人の匂いというか生活感があります。 ないものねだりなのでしょうか、懐かしさばかりがつのります。 ノスタルジーとはいえ、自分の目が捉える美しさを大切にしたいですね( ヌードアート空間、自分探しの旅に出る。 この場合は、過去に遡って・・・美しいヌードコラージュ・イメージ画像ということですね)。

 

 

色彩画とモノクロ画・腹部の美 ヌード鉛筆画・尻の穴が見えるポーズ ヌードクロッキー・バストと乳首

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